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SAYURI メモワール・ボックス (初回限定生産)

SAYURI メモワール・ボックス (初回限定生産)
ロブ・マーシャル
SAYURI メモワール・ボックス (初回限定生産)
定価: ¥ 8,190
販売価格: ¥ 6,292
人気ランキング: 8993位
おすすめ度:
発売日: 2006-07-05
発売元: ポニーキャニオン
発送可能時期: 通常1~2週間以内に発送

???舞台は京都の祇園ながら、アメリカ人のアーサー・ゴールデンが原作を書き、ロブ・マーシャル監督で映画化。その点だけでも、これは日本人にとって興味津々の作品だろう。幼い頃に置屋に売られた千代が、花街で一番の芸者「さゆり」に成長するまでを、豪華絢爛な映像で描いていく。さゆり役にチャン・ツィイー、彼女が想いを寄せる会長さんに渡辺謙など、アジアを代表するスターが共演。端々に日本語の単語を織り込みつつも、基本は英語の会話というのには違和感もあるが、その分、異色の面白さが味わえるのも事実だ。
???芸者たちの踊りや着物の着方など、明らかに常識と違う描写にも、マーシャル監督の美意識が貫かれている。日本家屋の暗さや、障子に映る影には、日本映画以上に“日本らしさ”が意識されている気もする。さゆりと先輩芸者の初桃、そのライバルの豆葉など、女たちが嫉妬と確執のドロドロなバトルを繰り広げるのだが、この点はハリウッド製のためか、映像ほど、こってりはしていない。そんななか、桃井かおりの存在感だけは終始、圧倒的だ。(斉藤博昭)

日本の映画関係者は恥じるべき
この映画、男は日本人が起用されてるけど日本人役のヒロインは中国人。
なぜか?外国の映画関係者が日本人の女優で…と考えた場合、彼らが観た
過去の日本映画から適当な女優はいないか、と考えるでしょう。
しかし、日本映画で美人女優と考えたとき、誰がいるでしょうか。
以前から感じていたことですが、日本の映画監督というのは、作家志向というか、
大衆ウケするような作品を作ることに抵抗を感じる人が多いようです。
(本音を言えば、ヒット作を作る自信がないからチープで小難しいものを
作って自己満足しているだけなのかもしれないが)
そんな日本映画でヒロインになるのは「個性的」な女優、「実力派」の女優
が多く、香港映画でやたら綺麗な女優がバンバン出てくるのとは対照的です。
これはテレビドラマでも似たような状況があり、松たか子、江角まきこなどが
ヒロインを演じていたりする。
なぜこのようなキャスティングになるかと言うと、作り手側が「女性に人気の
女優」と起用するからです。
これでは海外の映画関係者の目にとまらないでしょう。
「踊る大捜査線」が韓国でコケたとき、韓国人は言いました。
「韓国ではヒーローヒロインは美男美女でなければウケない」と。
大衆ウケ、海外ウケする映画を作る気が日本の映画関係者にあるなら、その
へんを少し考えた方がいい。

まぁまぁ。
なんだろう?特に心に残るようなものは無かった。おそらくどの役にも共感できなかったからだろう。しかしそれは当たり前だろうな。俺芸者でもなければ芸者遊びもしたこと無いからw。

欧米の描く日本像によく腹立つこともあるが、この映画の中の日本文化の描き方については、そんなに気にならなかった。まぁ欧米人から見た日本的なファンタジー世界だと思えば納得もいく。まぁ戦後直後の
日本女性像は腹ただしいが。

映像は美しかったが、全般的に暗いので目が疲れた。役者は良くやっていたと思う。特に不満は無かった。英語しゃべってんのはしょうがないでしょう。アメリカの映画なんだからさ。日本人が作ってんのに英語だったら腹立つけど、アメちゃんに見せるモンなんだからさw。欧米人ががんばって芸者を描いた努力を評価するよ。

そしてストーリだが、良かったと思う。意外と面白かった。もっと酷いかな?と先入観を持っていたので、予想以上によかった。最後は感動的だった。だが、かなりサラーっとあっさり見たので、俺はおそらく細かいストーリ背景をかなり見逃していると思う。登場人物の相関が途中でよくわからないときもあったしw。まぁ大体の主な流れは把握したと思っているので、色々な紆余曲折、苦労などありながら、自分なりに生きたサユリには良い印象を受けた。最後のシーンも感動的だったので星三つ。

なんども見る気はないが、まぁ一回見る価値はあるんじゃないかな?

「旦那としての西洋」と「芸者としての東洋」
このロブ・マーシャル監督によるMEMOIRS OF A GEISHA(邦題SAYURI)という映画で、誰もが驚かされるのは日本が舞台であるにもかかわらず、ほぼ全編で話される言葉が英語であり、さらには主演の日本人芸者SAYURIを演じるのが中国人俳優チャン・ツィイーだという点だろう。言語については、DVDのオーディオコメンタリーで監督とプロデューサーのジョン・デルーカが「西洋基準だ」と語っているが、日本人の役を中国人俳優が演じる根拠については理由が希薄というよりもコメントそのものが無い。この事をどう考えるべきなのだろうか。なるほど、そういった日本人の感覚をナショナリズムだと批判し、コスモポリタンな作品だと評価するむきもあろう。しかし、観終わった後、私には拭いきれない苛立ちのようなものが残る。確かにこの映画は映像としては大変、美しい。女性陣や衣装、建築は勿論、夜の闇に浮かび上がる戦前の花街の灯や風にはためく染色された数々の布のショットの美しさは目眩をおこすほどだ。アカデミー賞で撮影や美術、衣装デザインの三部門を受賞したのも納得できうる。だが、その心地よさに目を奪われて、日本語に対する英語という言語の位置、主題として語られる「女性」や「東洋」という表象からも明らかなように、そこにあからさまな文化の権力構造がある点を決して見落としてはならない。オリエント(東洋)は存在しないと、かつてサイードは名著『オリエンタリズム』で指摘し、オリエントなるものはオクシデント(西洋)が自らを主体として確立すべく、捏造されたイメージであると述べている。すなわち、この映画を語る主体は誰かと言えば、どこまでいっても「西洋(そして男性)」なのだ。映画内容に則していば、「旦那としての西洋」と「芸者としての東洋」という隠喩さえ感じてしまう。オリエントの女性SAYURIの不思議な青い目は、監督によって生き方を反映した「水の象徴である」と語られるが、監督の意図を超え、その「青い目」という表象は、どのように東洋に光をあてようとも、やはり文化の主体は西洋であるということを奇しくも表現してはいないだろうか。